今回の研修では「古洋楼金門地方創生基地」という、現地の若者が中心となって進めている地方創生プロジェクトとから有り難い協力を沢山得られました。また、現地の人々交流する機会があり、彼・彼女らとの対話から多くを学びました。記録は前編と後編に分かれていますので、まだお読みでない方は、是非前編からお読みください。
欧陽鐘遠洋館は現在リノベーションされて、時苑 (Dwell in Quemoy)というブランドを持つオーナーが、写真撮影などを行うイベントスペースとして運営している。
ブランド名にある「苑」という漢字は、近代の中国語で主に庭園をあらわす。これは普通の日常会話ではあまり使用されない漢字で、詩的なイメージがある。私たちがお邪魔した洋館もまさにそうで、多くの家具が置かれているにも関わらず、無意味と感じさせるものが一つもなかった。その名の通り、全く同じ家具を100年前に置いても、100年後に置いてもおそらくなんの違和感もないだろう。
ガイドをしてくれた呉さんから聞いた話では、このオーナーは音楽、映画、読書に興味があり、運営している宿や、カフェなどに置いているアルバム、映画ポスター、蔵書などは、それぞれが似通いつつも、少しずつ違った雰囲気を演出しているそうだ。
金門の土地代は安いだろうと、私は素人ながらに考え、吳さんに聞いてみたところ、この古い洋館をこれほどのクオリティに仕上げるには数百万元(数千万円)は必要だろうと聞いた。私は、“The devil is in the details(神は細部に宿る)” という言葉の意味をより理解できた気がした。
私たち一行はこの建築物でオーナーや呉さんらと金門人のアイデンティティ、「中華」という漠然とした言葉の意味などについて意見交換をした。夜の9時までしかこの洋館を借りていなかったはずなのに、話が盛り上がりすぎて、結局宿に帰るのが11時ごろになった。これは時間を忘れさせるような経験だった。唯一遺憾だったのは、このオーナーが運営しているカフェ(百花・洋楼喫茶)を時間の関係上訪れることができなかったことである。(たてやま)
欧陽鐘遠洋館での夕食の際に、金門島出身や、現在金門島に居住している人々と交流する機会があった。そこでは、金門島の特殊な政治事情や、複雑なアイデンティティについて話を聞くことができた。金門島は地理的には中華人民共和国福建省に近いものの、現在は中華民国(台湾)が統治している。国共内戦によって長期にわたって大陸との交流が途絶え、さらに中華民国が台湾化していく中で、金門島に住む人々がどのようなアイデンティティを持っているのかは、非常に興味深い話であった。
まず、金門島の人々の自己のアイデンティティについての複雑な思いは、台湾本土の人々に理解されにくいという話を伺った。台湾本土に住む人にとって、金門島は遠く離れたなじみのない土地であり、ともすれば、「中国」アイデンティティが強く、「親中的」であるというイメージを持つだろう。しかし、金門の人々が持つアイデンティティは、決して大陸の中国政府に親和的であるという単純なものではなく、文化や歴史、言語など様々な要因が重なり合って生まれている単純化されえない複雑なものである。それを「親中的」というステレオタイプな見方で括ってしまうと、金門を正確に理解することは難しいだろう。
交流会では、金門や馬祖といった歴史的に大陸とのつながりが強い地域が、台湾の(としての)独立を目指す人々にとって、都合の悪い存在であることを憂いているという意見もあった。金門や馬祖の存在は、台湾が中華文化を共有し、中国の一部であることの根拠になりうるからだ。また、金門の閩南語を、「台湾語の金門訛り」といわれることに違和感を持っているということも知ることができた。私個人は、他民族・多文化が共生し、尊重されていることこそが台湾を台湾たらしめているのであり、結果的に中国との差異を明確にしていると思っている。そのため、今後も台湾が金門や馬祖などの文化の違いがある地域を包摂し、様々な文化が共存することを願いたい。
この交流会がなければ、私の金門へのイメージは、台湾の一部でもあるにもかかわらず、中国の文化が残り、軍事拠点として利用された島といった認識にとどまっていたかもしれない。もちろん金門に住む人の考え方は一様ではなく、今回聞くことができた意見が金門の人々を代表するものとは言えない。しかし、民宿のオーナーさんの、国家や民族といった概念についての見解などを含め、金門に住む人々に着目してこの地域を考える機会が得られたことは大変貴重であったと思う。この交流会の開催に尽力してくださったすべての方々に心から感謝申し上げたい。(こぐすり)
私たちが宿泊している水頭集落から車で5分ほどのところに、水頭埠頭がある。この港からは、もともと小金門島へのフェリーが出ていたが、金門大橋の開通によってそのフェリーもなくなり、今は主に中国大陸の厦門へ向かう小三通の高速船のみが発着している。我々は国際空港のような空気をもったこの埠頭から、金門島の周辺の島々をめぐるクルーズ船に乗船した。
出港すると、まずは右手に小金門島が見えた。前日に訪れた九宮坑道や湖井頭の陣地が海から見るとどのような感じであるかが確認できた。確かに陣地があるといわれれば見つけられるが、遠目にはどこにあるかわからず、よく擬態できていると感じた。
次に正面に見えるのが猛虎嶼である。この島はいまだに中華民国国軍(以下:国軍)が管理しており、常時数十人の軍人が暮らしているという。この島に船で上陸できるのは満潮のときだけで、物資を補給するのも大変だという。最前線で国家を護る国軍の苦労が実感できる。現在は冷戦期ほどの緊張はないものの、最前線かつ物資も届かない孤島で任務を果たす国軍の兵士は偉大である。
暫くすると、有名な大胆島、二胆島が正面に見えてきた。大胆島の戦いという1950年に起こった戦いで、国軍兵士が激戦の末、守り抜いた最前線の島である。大胆島はその歴史的経緯からしても重要な島であり、金門防衛と反共復国のための拠点として要塞化がすすめられた。島にはいまだに100人を超える軍人が住んでおり、ジープなどの動きが船上から確認できた。島の入り口には自由屏障(自由を守る最前線)の文字があり、東西冷戦の最前線にいる実感が沸きあがってきた。西洋のベルリン、東洋の金門というのは過言ではない。
大胆島を海から見ると、島の岩にはたくさんの銃や大砲用の攻撃口があり、いつでも大陸を攻撃できるようにしていたことがわかる。島の反対側に船を進めると、「三民主義統一中国」の大きな文字が見えてくる。昔インターネットでこの写真を見た時、かつての中華民国の反共復国への思いと歴史を感じ、いつか実際に自分の目で見てみたいと思っていただけに、実物が見られたことが本当にうれしかった。
大胆島から、船はさらに前進し、目の前にはうっすらと厦門の街並みが見えてくる。さらに近づいていくとくっきりと厦門の街が見えた。中国籍の船が金門島側に入ってきているのを見ると、今年頻発している金門周辺での中台間の船舶トラブルも、起こるべくして起こるのだろうなと感じた。中台の中間線のブイ周辺まで行くと、厦門の街はよりくっきり見えるようになる。厦門の港には「和平統一、一国両制」の大きなスローガンが見えた。さらに進むと、発展した厦門の高層ビル群が見えた。1949年に分断された対岸が発展していく様子を見て、金門の人や外省人はどんなことを感じたのだろうか。人によって考えは異なるだろうがその皆の心情が複雑で一言で言い表せないことは確かであろう。
中間線の付近を航行していた時、目の前に中国海警の船が現れた。今年に入ってから金門籍の船が海警に摘発されていることは知っていたので少し緊張したが、特に問題は起こらずに我々の船は金門のほうへと引き換えしていった。途中、中国側の空港連絡橋建設の現場を通った。中間線に近い場所に橋を建設していく様子は、南沙諸島の埋め立てに共通する中国の強硬さを感じた。その後、30分ほど進み、金門大橋をくぐると船は水頭の埠頭に到着した。
歴史的な戦役が行われた場所を実際に見て、中国大陸と金門の近さを肌で感じることのできるこのクルーズは、いまだに中台の最前線である海域を通る。それにもかかわらず、我々や台湾本島からの観光客などを乗せて、船内にはほのぼのとした時間が流れていた。普段日本で耳にする、「台湾有事」などとは程遠い落ち着いた空気は、小三通などにもみられる、中国と台湾および金門の、ある程度緊張はしているが往来や接近は普通に行われる不思議な関係そのものではないかと考えた。(さかもと)
「藍色航路」ツアーには、たまたま日本語を話せる台湾本島からの観光客が同乗しており、その方やその方の家族とも交流しながら船に乗った。国境付近の軍事用の島を船上から観察し、当時のスローガンが刻まれた石碑を探した。国境ギリギリのところまで船は進み、対岸の厦門の建物や街並みがかなりはっきりと見えるほど近づいていった。これまで国境付近に行ったことは無かったため、貴重な体験であった。
以前、日本で自衛隊基地を見学した際には、戦争と言うよりも国内災害や最低限の国防に対して備えているというイメージを持ったが、金門島で見たものはどれも日本より戦争に対する切実さが違うと感じた。そう感じた理由の一つとして、町中や航路で見ることが出来た、数々のスローガンが挙げられる。戦争に向けた政治的な意味があるスローガンを見ることは、日本ではなかなかなく、とても不思議な気持ちになった。至るところに政治的、軍事的なスローガンが見られる光景は、今回の研修で一番日本とのギャップを感じたポイントであった。
これらのスローガンはかつて金門島が戦場だった頃、多数の兵士を励まし、士気を高めるための装置であったという歴史的背景があり、非常に興味深かった。加えて、あのようなスローガンが当時の兵士たちにどのように作用したのか気になった。精神的にも極限状態に置かれるなか、金門島の至る所にある赤字の言葉を彼らがどのように受け取ったのか。スローガンはどの程度彼らの士気を高めることに効果的だったのか。是非当時の資料を調べてみたいと思った。(かねこ)
戒厳期に軍人の生活を支えていた後浦の商業地域は、今では金門島の観光資源となっている。商店街と戦争の関係を説明しながら、その痕跡をめぐるツアーに参加して、政治に翻弄されて続けた金門島の歴史について実感できた。
後浦の商店街のなかで、最も人気のある店舗だと言っても過言ではない「存徳薬房」は、約200年前の清朝期に創業し、現在は第五代目の方が経営している漢方薬店だ。中華文化圏で生活している人々に人気のある薬草の種類が豊富で、スタッフさんは忙しそうに薬草を調合していた。その姿を見ると、金門島の現地の人々がどれほどこの店を愛用しているのかを、窺うことができた。
「存徳薬房」の建物の様式は、模範街のほかの店舗と上手く融合しながらも、多くの客が訪れるためか、豊富な薬草が置かれているせいか、店舗の風格に何か特別感を感じた。この建物の見どころの一つは。閉店時にドアに鍵をかけて扉を締めるのではなく、木の板を一本ずつ店舗を隠すような形ではめこんで閉店するという、昔ながらの方法である。
この漢方薬店の商品の中で人気があるのは漢方薬だけではない。最も人気があるのは、この店で挽いて、その他のものを一切添加せずに作った胡椒だそうだ。スタッフの方から伺った話では「台湾本島から来た人も必ずここに寄って、買って帰る」らしい。私自身も中国料理を作るのが趣味なので、ここにくることが非常に楽しみで、胡椒、十三香などの香料を多く買い求めた。ここにしかない特別なものを選ぶ楽しさが、この店の魅力をさらに引き立てている。(たてやま)
商店街には、理髪店が多く立ち並ぶ路地もあった。金門島には最大10万人ほどの軍人がいて、軍には頭髪規定があったため、それだけの人数の髪を切るために多くの理髪店が必要だったそうだ。また、当時の子どもは、女の子でも「西瓜頭」でなければならないという髪型の制限があったという話を伺った。
今回訪問した「華華理髪店」には4台の椅子があったが、現在使われているのは手前の2台のみの様子であり、当時の需要の大きさと同時に、戒厳令が解除され、この島の軍人が激減してからの島全体の経済の衰退を感じた。店主は気さくな方で、当時から使われていた伝統的なドライヤーやハサミ、ヘアアイロンなどを見せてくれた。多くの軍人たちが通っていた面影が存分に残っていた。(こぐすり)
【金門の人々の魅力】
研修を通して現地でしか感じることのできない島の雰囲気や、街の様子をたくさんみることができた。その中で、今回の研修の日程が823砲弾記念式典と重なっていたり、現地を案内してくださった方が金門島で兵役を経験していたりという幸運が重なって、金門島の歴史に関わる軍事的なお話や政治的なお話をたくさん聞くことができた。
お話を聞く中で、それぞれ個人のアイデンティティに対して自分の意見があったり、街に対しての関心がたかかったりしたことがとても印象に残っている。自分とは違うアイデンティティを否定しないし、色々な可能性があって、自分はその選択肢の中の一つだという考え方にとても興味を持った。
また、研修で関わった現地の方々は島の町おこしプロジェクトと関わっていたこともあり、彼らにしか語ることのできない島の魅力をたくさん教えてくれた。その中で暑い中の研修だったため、私たちの体調を気遣って予定を組み立ててくれたり、涼むためにカフェに行こうと提案してくれたりと彼らの優しさにも感動した。(まるたに)
【アイデンティティについて考えた】
恥ずかしながら、私はこの研修まで、金門島という存在すら知らなかった。しかし、今回の研修で現地の方々との交流を通し、様々なことについて考えさせられた。一番印象的だったのは、金門島の方は自分のアイデンティティについてどのように考えているのか、ということだ。
私は今まで自分のアイデンティティについて深く考えたことは無かったが、大学生になり様々な人と触れ合うことで、自分自身について考え直させられることが多くなっていた。そんな折に、今回の研修でアイデンティティについての様々な話を聞き、その考え方に刺激を受けた。金門島や周辺の地域が歩んできた歴史や、隣接する大陸の人との関係など、私が日頃は考えもしないようなことを金門島の方々は日々考えているのだと分かると、自分の中の世界が広がったように感じた。
今回の研修で行われたどのアクティビティも普通だったら体験出来ないものばかりであり、貴重な話を多く聞くことが出来た。今回の研修で学び、感じたことを今後に活かしていきたい。今回の研修に携わっていただいた全ての皆様、ありがとうございました。(かねこ)
【金門自体の魅力】
金門は今回2度目の訪問であるが、その中で最も感じたことは、同じ島でも一緒に回る人によって見える景色が違うということである。前回も史跡はたくさん回ったが、ガイドなどは付けずに博物館の説明などを頼りに見学した。もちろん、その時も歴史的な内容は認識できたし、たくさん得られた知識もあった。しかし今回は、貴重な地元の人たちの生の声やガイドの方々の説明もあり、より金門の人の暮らしや経験に寄り添った歴史を知ることができた。歴史は見る人によって見え方が異なることを実感できる研修となった。
また、金門は何度訪れても新しい発見があり、一度訪れた場所でも時間や季節、一緒に行く人によって見える景色が異なる場所である。また、金門は「中台に挟まれた島」のように説明されることが多いが、この島自体に落ち着いた空気があり、独自の文化が魅力的な美しい島である。金門で得られる、発見と落ち着いた空気は、私を何度でも金門に行きたい気持ちにさせてくれる。そして、何より金門に行くたびに触れる人々のやさしさやぬくもりも金門の魅力であり、私は訪れるたびに本当にこの島々が大好きになっていく。(さかもと)
【歴史と洗練の交錯】
金門を訪れた今回の旅は、単なる観光とは異なる体験でした。この地に足を踏み入れた瞬間から、過去と現在が交錯する独特の空気に包まれ、何とも言えない感慨を覚えました。特に印象的だったのは、「欧陽鐘遠洋館」と「存德薬房」の二つの場所です。いずれも時の流れを超えたのではないかと錯覚させるような場所でした。しかしながら、後浦の商店街や金門島全体には衰廃の趨勢を隠しきれない部分もありました。歴史を残しながら洗練させればさらによくなりそうな場所がある一方で、あと10年程度で消えてしまいそうな場所もありました。
この2通りの場所の違いは明瞭で、後継者や若い人がいるかどうかにかかっていると思います。後浦にあった「存德薬房」は現在は第五代目の若い人が跡を継ぎ、さらに発展させ、金門を訪れる観光客が必ず立ち寄るような場所になったが、同じ後浦で訪れた手芸店や理髪店では、そうした若い力はみられず、博物館のような印象を受けました。
そして、やはり金門の最も大きな魅力はそこに生活している人です。台湾本島(特に都市)の人々よりも、見知らぬ人との繋がりを大切にし、雑談をしていても楽しいと感じます。私は大都市でしか暮らしてこず、雑談をしていると何かぎこちない、面倒だなという感覚がありましたが、金門では自ら話しかけに行こうという衝動に駆られました。(たてやま)
【金門と沖縄】
金門島へのゼミ研修を通して、金門にとどまらず、台湾への認識を深めることができた。
金門島には、伝統的な建物のほかに、金門出身の華僑が出稼ぎで成功をおさめ、その資金で作られた中華文化が混じった洋館が残っていて、町を歩いているだけで楽しめる魅力にあふれていた。そうした文化を感じる一方で、町の至る所に防空壕や軍事施設があり、この島が軍事的最前線であったことがはっきりとわかった。
金門島は、中華人民共和国福建省が対岸に見えるほど近くにあるにもかかわらず、台湾(中華民国)の統治下にある。国共内戦で敗れ台湾に逃れてきた人々にとっては大陸反攻の象徴として感慨深いものがあるだろうが、それ以前から台湾に暮らしている本省人にとっては、あまり繋がりのない、異質な場所であろう。私たち日本人のような海外からの観光客が、台湾の離島といった程度の認識で金門を訪れたら(そうした認識で金門を訪れる人はいないとは思うが)、台湾本島との文化、風習の違いに驚くはずだ。
そういった点で、私は台湾にとっての金門は、日本にとっての沖縄のようだという印象を受けた。台湾本島からの視点で金門を望めば、金門は辺境に位置し、文化も歴史も、アイデンティティも異なる島である。台湾は中国とは異なる事実上の独立国家であるという考え方が主流である今日の台湾本土では、金門独自の政治事情は容易に理解できるものではないだろう。
金門は、長らく大陸反攻、台湾防衛の軍事拠点として存在していたが、今年8月には金門島県議会の超党派グループが金門と厦門を結ぶ橋の建設を支持し、金門を非武装地帯にするよう求めている。そうした考えは台湾本土からは「親中的」と受け取られるだろう。また、交流会で金門出身の方は、金門について台湾の人は理解せず、台湾独立のためには金門・馬祖のような存在が邪魔であるという意見もあると語っていた。
日本にとっての沖縄も、金門と同様に辺境にあり、独自の文化、歴史、風習がある。そして、本土の視点から見ると、東アジアの安全保障環境が緊張している中で、過剰な米軍基地負担に抗議する沖縄の民意は「親中的」とも認識されうる。もちろん軍隊に対する認識など両地域には異なる点もあるが、先述した共通点を感じることが多かった。
日本では、近年台湾有事の危機がメディアなどで頻繁に報じられ、いつ戦争が起こるかわからないような印象を受けがちである。しかし、実際に金門に行くと、かつての軍事施設は観光資源化していて、報道されるような危機感は伝わってこなかった。フェリーで厦門の近くまで行った際には、漁をしている台湾漁船は、捕った魚を中国に売り渡しているという話も伺った。そうした事実のみをもって台湾有事は絶対に起こらないとは言えないが、過度に危機を煽ることは現地の人にも歓迎されないだろう。金門に実際に行ったことで、現地の人の生活や思いに触れられたことは、本当に貴重であったと思う。
また、今回の研修は、3日間車の運転をしながらガイドしてくださった呉さんをはじめ、古洋楼金門地方創生基地のみなさん、民宿のスタッフの方々など、様々な方の支えによって行われたものであった。特に、3日目のフェリーが運航されるように人数を確保して下ったことなど、金門の人々の親切さには、本当に感謝してもしきれない。研修をサポートしてくださったすべての方々に心から感謝したい。研修での学びを、研修に行けなかった学生にも共有し、多くの人が金門に関心を持ち、金門に対する固定化した見方から脱却して正しく理解できるように尽力したい。そして、私自身も、実際に金門を訪れ、さらなる疑問や関心が生まれた。この研修を出発点に、さらに学びを深めていきたい。(こぐすり)