今年は7名のゼミ生と福田で、インド太平洋地域において地政学的な重要性が高まっているグアムを訪れました。皆で、グアムの歴史と現状、アメリカにおけるグアムの位置付け、日本や台湾との関係について学びました。ゼミ生たちは春休みに事前勉強会を行い、研修後はレポートを提出してくれたので、学生のレポートと写真で作成した報告書を掲載します。お世話になった皆様に心より御礼を申し上げます。
グアム北部・ジーゴ地区
南太平洋戦没者慰霊公苑
南太平洋戦没者慰霊公苑は、第二次世界大戦で亡くなった日米の兵士とグアムの住民を祀るために建てられた。近年、自衛隊がグアムを訪れる時には必ずこの公苑を清掃し、黙祷を行う。公苑のなかには、慰霊公苑の維持費などを寄付した法人や個人の名前が刻まれたオブジェがあった。
記念碑の近くには平和堂と呼ばれる建物もあり、中にはたくさんの千羽鶴があった。これらの千羽鶴は修学旅行などで訪れた高校生が供えたものが殆どで、日本から多くの高校生たちがこの場に足を運んでいたということが分かった。近くには、日本兵が洞窟や草むらで戦ったり、隠れたりしていた形跡のほか、貯水池のようなものが残存していた。この場所は太平洋戦争時の激戦地であったが、いまだに全ての戦没者の遺骨を集めることができてない。
アンダーセン空軍基地
南太平洋戦没者慰霊公苑の近くの高台から、アンダーセン空軍基地を見下ろした。基地は休日だったのか、移動する戦闘機や基地で働く従業員の姿はあまり見えなかった。基地自体はかなり広く長い滑走路がいくつもあることが分かった。
アンダーセン空軍基地は、太平洋戦争時に米軍が日本の本土を爆撃するために整備した基地であるが、現在も西太平洋地域における米空軍の拠点として機能している。この地域では、唯一戦略爆撃機を展開することが可能な空軍基地である。
第二次大戦記念碑
第二次大戦記念碑「ザ・ラスト・ミッション」には、太平洋戦争における米空軍最後の秘密ミッションが書かれていた。広島と長崎に原爆を投下した後、米空軍は油田が多くあった秋田に爆弾を落とした(日本では土崎空襲として知られている)。この空襲を行った空軍部隊が出動した場所に記念碑がある。なぜ秋田にも空襲を行ったのかというと、日本がいつ降伏するか分からないためだった。
秋田の後にも日本が降伏するまで空襲を続ける計画は複数あった。しかし、8月15日に日本が降伏したため、これが「ラスト・ミッション」になったそうだ。このようなミッションや引き続き空襲を行う計画があったことを日本人で知っている人は少ないのではないのかと考えた。この事実があったことを知れたのは、貴重な経験であった。
リティディアン岬
リティディアン岬は、グアムの最北端に位置する。ここのビーチはグアムの中でも、とりわけ海が綺麗なことで有名である。しかし、潮の流れが早いため、遊泳には向いていない。
この地区では自然保護団体が希少な生物の保護に力を入れていて、絶滅する恐れのある森林や生物などを再現するために、グアムやアメリカ政府の資金援助の下で活動している。自分たちが訪れた日は自然保護センターの休館日だったが、バスの運転手さんによれば地元でも珍しいという豚の親子を見かけたりもした。また、この地域には古代のチャモロ人集落跡も残っている。
恋人岬
恋人岬は、グアムがスペイン統治下にあった時に起こった恋の悲劇が言い伝えられ、恋人たちの聖地となった場所である。高台の下を覗くと、崖と綺麗な海が見え、開放感がとてもあった。景色の良さは今までで見た景色の中でもトップクラスだった。恋人同士で鐘を鳴らしていた人がいた。鐘を2人でつき、3回ぴったり音が鳴ると幸福になれるというジンクスがあるそうだ。
これらの場所を巡るなかで、かつて日本兵と米軍兵とグアム住民が亡くなった土地であるということを知らずに、グアムの観光地だけを訪れることはできないと感じた。かつて実際に戦地だったところに足を運ぶことで、戦争の生々しさや戦争の爪痕など目にすることができた。(あらい)
在ハガッニャ日本国総領事館
在ハガッニャ(グアム)日本国総領事館への訪問では、総領事の石神留美子さんから、日本とグアムの関係性について、さまざまな角度からお話を伺うことができた。石神さんは、外務省に入省後、各国大使館や国連機関などで勤務してきた。そうした経験を踏まえた貴重なお話は、日本とグアムの関係性のみならず、国際社会の動きをみる上で大変役立つものだった。
近年の日本とグアムとの関係の中で最も注目されているのは、安全保障に関わる問題だ。沖縄に駐留していた米海兵隊をグアムに移転することは、2006年に日米両政府間で合意があったが、この計画は2012年に見直され、長期にわたって進んでいなかった。しかし、移転先の新基地「キャンプ・ブラズ」の運用は2020年から段階的に開始され、2024年からは在沖米海兵隊がグアムの新基地に移転する予定だ。石神さんは、こうした近年の急速な進展の背景には地域における中国の進出に対する脅威認識があると指摘していた。
一方で、グアムの軍事化が進むことに現地の人は否定的な感情を持っているのではないかとの疑問が浮かんだ。石神さんの話によると、明確に基地への反対を主張している人はほとんどいないそうだ。その背景として、グアムに住む人にとって、基地は経済的な基盤であり、グアムは基地によって支えられているという認識があるという。むしろ、中国や北朝鮮の脅威によってアメリカ本土からグアムに対しての関心が高まることで、政府からの支援金を得られ、経済的に潤うという期待を持つ人もいるほどだそうだ。
確かに、太平洋に浮かぶ人口17万人の小さな島であるグアムにとって、米軍基地は経済的な豊かさをもたらしている存在だといえる。しかし、グアムはアメリカの準州という位置づけで、合衆国憲法の一部が適用されるのみである。グアムの人々は大統領選挙に参加することもできず、また、選挙によって選出された下院議員も、本会議での議決権は持っていない。グアムの現状をアメリカ本土に伝え、その声が実際に反映される可能性は限られている。そうした非対称な関係を、現実的な損得勘定に基づいて肯定的に捉えてもよいのだろうかという疑問を持った。
チャモロ人の「調和意識」についても話を聞くことができた。日本は真珠湾攻撃とほぼ同時にアメリカ領であったグアム島も攻撃し、その後31か月にわたって占領した。その際、日本軍は占領に抗議するチャモロ人を虐殺したり、強制労働を強いたり、皇民化教育によってチャモロ文化を否定したりした。こうした歴史があるにもかかわらず、チャモロの人々の多くは、日本や日本人に対して否定的な感情を持っていないそうだ。
その背景に、チャモロ人の調和意識があることを石神さんは教えてくれた。グアムでは、毎年7月にリバレーションデーという、日本の占領が終わりアメリカ領に復帰したことを祝う祝日がある。しかし、今日のリバレーションデーは日本に対する負の感情を共有するものではなく、日本を含めたすべての国々、人々との調和を目指す日となっているそうだ。こうしたチャモロ人の調和意識は、現在に至るまで大国に翻弄されてきたチャモロ人が生き抜くための知恵なのではないかと考えさせられた。
また、観光業を通じた日本とグアムの関係についてもお話を伺った。戦後、日本人にとってグアムは手軽に安く行ける南国といったイメージで、多くの人の新婚旅行先に選ばれていた。一時はグアムを訪れる日本人は、グアムを訪れる観光客全体の4割以上だったそうだ。しかし、新型コロナウイルスの流行によって深刻な打撃を受け、また近年では円安の影響もあり、日本人観光客数は大きく減少している。一方で、新たに羽田とグアムを結ぶ直行便が就航予定であることや、短期の語学留学先としての可能性を持っているなど、明るい話題もある。石神さんは、今後多くの日本人がグアムを訪れるように、また、チャモロの伝統文化や日本とグアムの交流行事などの広報活動に総領事館としても取り組んでいきたいと仰っていた。
今回の日本国総領事館訪問では、安全保障上の重要拠点としてのグアム以外に、グアムと日本の歴史的な関係性やチャモロ文化など、さまざまな視点からみたグアムについてお話を伺うことができた。今回、ゼミの海外研修の行き先としてグアムを選んだ大きな理由には、グアムがアジア・太平洋の軍事的な重要地域だということがあった。しかし、石神さんのお話から、多様な視点からグアムを理解することの重要性を学んだ。また、こうした視点は、ゼミで専門的に扱う中国や台湾について学ぶ際にも重要であると思う。例えば、中台の軍事的緊張について考える際にも、両者の経済的、文化的交流といった非軍事要素について考慮しなければ、非現実的な分析になってしまうだろう。ある分野について専門的に研究する際には、直接的には関係がないと思われる点も軽視することなく、充分に理解する必要があると感じた。このように、石神さんのお話は、グアムへの理解を深めたことにとどまらず、今後ゼミで学ぶ上でも重要な視点を得ることができた、大変有意義なものであったと思う。(こぐすり)
駐グアム台北経済文化弁事所
駐グアム台北経済文化弁事処は、台湾(中華民国)がアメリカに複数設置している弁事所の一つである。この弁事所は1991年に設置され、2017年より予算面の都合などにより閉鎖されていたが、2020年に再び開設された事実上の総領事館である。ここで、劉嘉平処長、黃嘉郁副処長、楊慎修副組長にお話を伺った。台湾とグアムの関係について興味深いお話を聞くことができ、新たな視点を得ることが出来た。
この弁事処では、グアムに住む華僑・華人への対応や、グアムの知事や議会との連絡、大学との学術交流、文化・医療に関する交流など、幅広い業務を行っているということであった。その中でも重要なのは、人的往来や観光促進といった、民間外交を発展させることである。例えば、台北市、桃園市、台中市という台湾の3つの都市はグアムと姉妹都市協定を結んでいる。また、台湾の先住民族とグアムのチャモロ人は同じオーストロネシア語族に属す民族であるため、先住民族同士の交流を促進し、ニュージーランドと締結したような先住民協定の締結(台湾は2022年にニュージーランドの先住民経済貿易協力協定に加入)に結びつけたいということであった。
台湾から見たグアムの戦略的重要性についても伺った。グアムはハワイと並んで太平洋の戦略的に重要な場所に位置し、交通の要所でもある。例えば、台湾からミクロネシアにアクセスする場合にも、グアムはハブのような役割を担っている。安全保障の面では、グアムはハワイにある米軍インド太平洋司令部の1つのセクションであり、グアムの経済文化弁事処が駐グアム米軍に直接働きかけることはほとんどないということであった。
様々なことをお伺いしていく中で、グアムと台湾の関係における現時点での大きな問題のひとつとして、グアムと台湾の間に直行便がないことが挙げられた。台湾とグアムの人的往来は、コロナ禍の前には多く、直行便もあったものの、新型コロナウイルスの流行により人的往来は大きく減少し、直行便も無くなってしまった。
コロナ禍によって、グアムだけでなくサイパンなど北マリアナ諸島においても、観光客数は大きく減少した。これによる収入の減少を原因として、サイパンの人口は約6万人から約4万人にまで減少したという。グアムや北マリアナ諸島の人々は、台湾との直行便の回復を望んでいるといえる。台湾においては高度な医療を受けることが可能であるため、グアムから台湾への渡航には、観光だけでなくメディカルツーリズムの需要もある。
現時点では台湾とグアムの間で直行便が再開する目処は立っていない。コロナ禍による飛行機不足や人材不足といった原因だけでなく、日本や韓国など台湾において人気のある渡航先と比べると、台湾とグアム間の直行便の需要が相対的に低くなってしまうことも原因にあるといえる。直行便を回復させるためには、まず需要をさらに増やす必要があるとのことであった。例えば、グアムと台湾双方の空港自体の魅力や、乗り継ぎ空港としての需要を向上させることが挙げられた。また、台湾においてグアムの魅力を広めていくことで、双方において渡航したい人を増やす取り組みが必要であるということであった。(さかきばら)
グアム海軍基地
第二次世界大戦中、グアム海軍基地は日本の統治下にあり、海軍基地内にはその時代の様々な史跡が残されている。今回、私たちは米軍マリアナ統合司令部の"Public Access Plan" という制度を利用して、基地内にある史跡を案内してもらった。コーディネーターのロペスさんにはツアーの計画段階から大変お世話になった。この制度は主にチャモロ人を中心とした現地住民を対象としており、私たちのような海外の学生研修は初めて利用したとのことで、貴重な経験となった。
T.Stell Newman Visitor Center
海軍基地の史跡見学ツアーは、このビジターセンター内のシアタールームでの太平洋戦争に関するビデオ鑑賞から始まった。グアムが日本に占領されていた時代のことや、太平洋戦争の様子、グアムが受けた影響などを学ぶことができた。センター内には多くのパネルが展示されており、パネルには英語の解説に加え日本語の解説がついていた。大宮島と呼ばれていた時代のことや、日本と米国にとってのグアムの戦略的重要性について、戦争の推移や、戦争の悲惨さを伝える映像などもあった。展示の種類は非常に豊富で、展示パネルだけでなく、画面にタッチすることで年表を見ることができるものや、軍服、銃などの展示もあった。また、ビジターセンターの前には旧日本軍の二人乗り潜水艦も展示されていた。展示が充実したセンターであり、グアムと日本とアメリカの歴史を学ぶのに適した場所であった。このビジターセンターは、海軍基地に隣接する太平洋戦争国立歴史公園内にある。(ひろなか)
Naval Operating base Hill Theater
太平洋戦争のグアムの戦いの後、主に海軍基地に収容された日本軍捕虜の手によって建てられたとされる円形劇場の跡である。丘の斜面全体を占める大きさで、約5000人を収容できたそうだ。捕虜の多くは沖縄の人々だったため、基地周辺の建築物の多くが石造で、沖縄で見られる石畳と同じ技法が用いられていた。当時はここで映画などが上映されたというが、戦争の暗い雰囲気の中、それらは兵士にとって貴重な娯楽のひとつだったのだろうと思う。
Gab Gab Beach/Japanese Defense Fortification
車を降りてビーチへ歩くと、夏空をそのまま写し取ったかのような濃く鮮やかな海と白い砂浜が美しく、ここも戦場だったとは信じられなかった。当時、日本軍はグアム島防衛のため、「トーチカ」と呼ばれる陸上の防御戦闘において、攻撃側の大砲や機関銃の射撃から火器を守るための防御陣地を設置した。近くで外壁を見てみると、無数の丸く、深い穴が空いていた。これらの穴は全て命中弾によってできたもので、その熾烈さは想像を絶するものだったことが窺えた。現在、このビーチは海軍基地内にあるため、軍人とその家族のみしか使用できないが、彼らのリラックス空間となっている。
Orote Airfield
オロテ飛行場は、第二次世界大戦中、グアム島で日本とアメリカが戦った際に重要な役割を果たした。オロテ飛行場は、日本軍にとっては米艦隊への攻撃のための燃料補給と再装備の拠点であり、アメリカ軍にとっては最大のターゲットであった。飛行場上空では激しいドッグファイトが繰り広げられ、空爆によって飛行場が受けたダメージは大きかったそうだ。現在、飛行場は修繕され、ジャングル開拓によってさらに付け足されて米軍が使用している。ガイドをしてくださったロペスさんによれば、今でもジャングルの中に零戦のエンジンが残っているのだそうだ。
基地内に残されている史跡のほとんどは、ジャングルの奥深くにあったものを、ジャングルを掃討した米軍が発見したもので、現在も残された遺物の捜索は続いている。このようなその土地の歴史や文化を尊重し保全していく活動を軍隊が行うことは、現地の人に安心と信頼を与えているのではないだろうかと考えた。(かつまた)
Japanese Prisoner of War Steps
この階段は、第二次世界大戦中にグアムの海軍基地内に収容されていた日本人捕虜が建設したとされている階段である。当時収容されていた日本人捕虜は海軍基地周辺のさまざまな石工工事を任されていた。そのため、この階段の石垣づくりは、Hill Theaterの石垣と同じ作りをしている。この階段の一部が壊れてしまっており、後から石造りを真似て作り直した箇所がある。同じような作りになるように見様見真似で作ったようだが、元のものと見た目がかなり違って見えた。このことから戦後に収容されていた捕虜たちの石工工事の技術の高さを感じることができる。
War Dog Memorial
この記念碑は、米海兵隊に従軍して戦死した軍用犬の記念碑である。1944年に日本の占領下にあったグアムを奪還するため米海兵隊が上陸した際、軍用犬は地雷の捜索や海兵隊員が眠っている際に危険を知らせる役割などを担い、海兵隊員とともに戦争を戦い、約250人の海兵隊員の命を救った。グアム島には60頭の軍用犬が上陸し、そのうち25頭がグアムの地で死亡したという。この記念碑にはその25頭の軍用犬の名前が一つひとつ刻まれている。
軍用犬は軍人と同じように扱われ、軍人と同じようにミッションをクリアすることでランクが付けられた。ロペスさんから、カートという軍用犬のパートナーであった海兵隊員は、カートが怪我をした際に、自身も重傷を負っていたにも関わらず、自分よりもカートの手当てを優先させたという話を聞いた。この話から、軍用犬が戦争において非常に重要な存在であり、大切なパートナーであったことが感じられる。現在でも多くの軍用犬がアメリカ軍において運用されており、人間と同じように訓練を行っているという。
Sumay Cemetery
スマイの歴史は、スペイン統治時代以前にまでさかのぼる。ヨーロッパ人がグアムを発見する前から、ここにはチャモロ人が住んでいた。1800年代には捕鯨船やその他の船乗りのための港町として栄え、首都ハガニアに次いでグアムで2番目に人口の多い集落となった。さらに1898年のアメリカによるグアム占領後も、スマイは戦略的にも経済的にも重要な村として存在し続け、グアム海兵隊の兵舎が設置された。軍用船と通信の中心地であったスマイは戦争によって大きな被害を受け、住民は居場所を失った。第二次世界大戦後、スマイの地は奪われ米海軍の基地となった。
スマイ墓地(Sumay Cemetery)は現在も米海軍基地の中にある。1910年頃には、この墓地に157のお墓があったというが、爆撃により大きな被害を受けた結果、公式の墓地記録と墓標は失われてしまったため、実際に墓地がどの程度の規模であったかはわかっていない。墓地は米軍基地の中にあるため、誰でも簡単にアクセスできるわけではなく、ここに自分の先祖がいると分かっていても簡単にお参りに来られるわけではない。年に一度、11月にこの墓地にお参りに来ることのできるツアーのようなものが開催されているという。そのほか、個人的な希望がある場合には、ロペスさんのような人がコーディネートして、墓参りを許可している。(ひろなか)
キャンプ・ブラズ
海軍基地見学の後、駐日米国大使館の紹介で、建設中のキャンプ・ブラズを見学した。同基地は、グアム北部のデデドに新設される海兵隊基地で、その名前はグアム出身のチャモロ人海兵隊員、ブラズ(Vicente "Ben" Tomas Garrido Blaz)海兵隊准将に由来する。彼は、1944年に日本軍からグアムを解放した連隊の一つを指揮した将軍であり、戦後はアメリカ海兵隊初のマイノリティ将校となった。退役後には米国下院のグアム代表を4期務めた人物でもある。
2006年に作成された在日米軍および関連する自衛隊の再編に関する「日米ロードマップ」は、沖縄に所在する第3海兵機動展開部隊とその家族をグアムへ移転すること、この兵力移転への沖縄住民の希望を認識しつつ、グアムにおける施設およびインフラ整備にかかる費用の一部を日本が負担することなどに合意した。その後、アメリカ議会による予算凍結と予算の見直し、日米安全保障協議委員会(「2+2」)による移転部隊の構成や人数などの見直しを経て、2020年にキャンプ・ブラズが開設された。2024年には沖縄に駐在する米海兵隊の移転が開始される予定である。
今回はこの基地に勤務する現役将校の説明を受けながら、主に車内から基地の様子を見学した。広大な敷地内で、多くの建物が未だ建設中であることが印象的だった。案内時に見せていただいた基地の全体図によれば、基地内には約60棟の各種建造物があるが、そのうちの半分以上が日本の資金提供により建設されているものであることが分かった。全体図では、そのような建物が判別できるように「J」の記号が付されている。また、日本の資金で建てられる建造物の工事現場には、「日米友好と親善に捧げる」と書かれた看板が立っており、現場でも日本の資金提供が判別できるようになっている。その看板には日本とアメリカの国旗だけではなく、グアムと沖縄のシンボルマークもデザインされていた。
私たちが車を降りて見学したのは、基地の敷地内にあるチャモロ人埋葬遺跡に関する記念碑である。基地の建設工事のなかで、敷地内の複数箇所から約1000年前のチャモロ人が埋葬された遺跡が発見された。そのため、軍はこれらの遺跡を発掘、調査し、必要なものは再埋葬して、この記念碑を建てたそうだ。記念碑の中央には、古代チャモロ人が信仰した山や野生を保護する精霊の家だとされたトロンコン・ヌヌ(trongkon nunu)と呼ばれる巨大なガジュマルが刻まれている。その両脇には、遺跡が発見された集落名であるサボナン・ファダン(Sabånan Fadang)の歴史や文化とチャモロ人を称える言葉が、チャモロ語と英語の両方で書かれている。また、記念碑の両脇には、古代チャモロ人が使用した臼であるチャモロ・ルソン(lusong)も置かれている。このような地での基地建設や、自然破壊に繋がる実弾射撃場建設に対して、チャモロ人団体の反対運動があることを事前の勉強会で学んでいたが、そうした声に向き合う軍・基地の姿勢を知ることができた。(ふくだ)
学生たちは、以下のような感想を寄せてくれた。
グアム博物館
グアム博物館は、太平洋の歴史と文化を保存している貴重な博物館である。この博物館を訪れ、豊富にあるチャモロ人の生活の記録や歴史背景を見て感動した。グアム博物館の外観は、開いた本のような形になっている。中央の屋根は、グアムの国旗にも使われている「グアム・シフレ」という紋章の形とヤシの木をイメージしたものだそうだ。
博物館に入るとスタッフの方に案内され、最初に10分ほどのショートムービーを観た。その映画の中では、チャモロ人がグアム島に到達した時の伝説が再現されており、彼らは手漕ぎのボートに乗っていた。「両目が月と太陽、胸が銀河、背中が山、顔が虹」というフレーズが印象的で、彼らが独特な感性を持っていたことが読み取れた。
博物館の展示は、大きく分けて2つに分かれていた。1つ目が、チャモロ人の生活に関しての展示だ。チャモロ族の伝統的な衣装や工芸品、日常生活の様子など、彼らの生活や価値観を理解することができるような展示物が豊富にあった。彼らは狩猟と採集に力を入れており、様々な道具を使っていたことも分かった。以下の画像が、当時使われていた道具のレプリカの展示である。
2つ目が、戦争の歴史だ。グアムは、米西戦争や太平洋戦争など大きな戦争の渦中にあり続けた。そのため、この博物館では戦争の歴史が非常に深く説明されていた。
特に印象的だったのが、下記の画像にある「A War Not Of Our Making」という文章だ。戦争によって多大なる犠牲を出したにも関わらず、この戦争とチャモロ人の行動には因果がないと書いてあった。私はこの事実に非常に驚きながら、戦争の悲惨さを噛み締めた。このブースの壁面には、グアム島で犠牲になった15,891名の名前も刻んであり、戦争の無情さを改めて実感することができた。
博物館のスタッフの方は限られた時間のなかで、より多くのことを伝えようとしてくれた。スタッフの知識や情熱は、博物館の魅力をさらに高め、自分自身の学びの原動力となった。今回得た知見を、今後の研究にも役立てたい。(なかむら)
スペイン広場・ラッテストーン公園
グアムの首都であるハガニアには、多くの史跡がある。実際に現地に行って感じたことは、それらの史跡が街に馴染んでいるということだ。グアムミュージアムを出て横断歩道を渡るとスペイン広場があり、そのまた奥に進むとラッテストーン公園がある。それらは自由に見学でき、例えばスペイン広場にあるチョコレートハウスでは実際に中に入ることができるため、いかにも史跡、という感じはせず、長い歴史を現地の人々が共に歩み、街の一部になっているという印象を受けた。
スペイン広場やラッテストーン公園から少し離れたところにあるサンアントニオ橋は、スペイン統治時代にハガニア川にかけられたもので、現在の橋は第二次世界大戦後に修復されたものである。今でも実際に橋の上を渡ることができる。その開放性から数年前はごみのポイ捨ての問題があったようだが、今ではきれいに整備されている。
ラッテストーン公園には、第二次世界大戦時に日本軍が掘った洞窟がある。これらは倉庫や防空壕として利用されたという。しかし、実際に掘る作業にあたったのはチャモロの使役労働者たちだ。チャモロとはグアムの先住民族である。チャモロの伝統的なラッテストーンの横に、日本軍がチャモロの人々を使役して掘った洞窟があるのを見ると、いたたまれない気持ちになった。
またラッテストーン公園にあるラッテストーンは、メポ村にあったものを移したものだという。このメポ村というのは、現在海軍基地のある場所に存在した村である。海軍基地を見学した際、かつてはそこにチャモロの人々の村があり、建設に反対したチャモロの人々もいたというお話を伺っていたため、ここに繋がりがあったことに驚いた。
史跡ではないが、同じくハガニアにあるチャモロビレッジでは、水曜日の夜にナイトマーケットが行なわれる。実際に行ってみると、現地の人々が伝統的な踊りを披露していた。現在、グアムの観光の中心はタモンに移りつつあるが、グアムの歴史に触れられるハガニアも必ず訪れるべきだと感じた。(いとう)
研修前後の活動
グアムでお会いした方々に、「勉強だけで、ビーチや観光には行かないの?」と心配されていたゼミ生たちですが、研修前後に延泊し、マリンスポーツやビーチもしっかりと楽しんだようでした。(ふくだ)